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マニア的な価値を見出せるかどうかがカギ バロネス・オルツィ『隅の老人【完全版】』

隅の老人【完全版】

隅の老人【完全版】

 

ホームズのライバルの一人として高名な隅の老人が登場する全38編を一冊にまとめた、世界でも初の本。翻訳者のマニア的情熱と該博な知識は、解説の内容だけでも推して知るべし。掲載順番も雑誌発表順に配列されており、この一点だけでも、創元・早川の短編集でこの探偵に親しんできた読者に、新鮮な驚きと発見を与えてくれる。

逆にこの探偵をまったく読んだことが無い人は、先に創元か早川で読んで、自分の好みかどうか判断しておいた方が良い。短編ミステリの冴えを感じさせるとともに、同工異曲の印象がぬぐい難い話が多いのもまた、事実なのだ。

特に、本国では三冊刊行されている短編集の最後の一冊『解かれた結び目』に掲載された作品は、その前の2冊の掲載作品に比べて総じて、語り口に衰えが目立つ。この辺りになると、読み切るのがけっこう辛い話が多い。

とはいえ21世紀の日本でこれほどクラシカルな香気に満ちたミステリが出版されるというのは、一つの事件と言ってもよい。ここに価値を見いだせるミステリファンなら、間違いなく「買い」の一冊であろう。ぜんぶ読む、という達成感は自己満足の裏返しであろうが、それすらもマニアなら味わっておきたい、一つの価値なのだ。そして、その価値をどう判断するかは、その人の業の深さに直結していると言えよう。

以下、各作品の感想。

 

第一短編集『隅の老人』掲載作品

「フェンチャーチ街駅の謎」
シリーズもの第一作とは信じられないほど、設定に関する説明が薄い。語り手ポリーの存在感の希薄さもあって、所謂「ホームズのライバル」における本シリーズの異色ぶりがわかる。巻末の訳者解説は圧巻だが、特に本作に関しては脱帽。初読は20年以上前の創元推理文庫版以来だが、真相は覚えていた。それでもこの筋運びの巧みさには称賛の言葉を送りたい。初めて読んだ時の驚きが、ありありと蘇ってくるようだった。

フィルモア・テラスの盗難」
創元・早川の両文庫ともに未掲載作品。人間消失ネタですが、うーん。時代の故でしょうけど、さすがに厳しい。

「地下鉄怪死事件」
創元で既読。なれど伏線のサラっとした書き流しには感心。老人の冒頭のセリフが結末で不気味に生きてるのも良いです。

「イギリス共済銀行強盗事件」
光文社文庫の『クイーンの定員Ⅱ』に掲載されていたそうです。これも時代性ゆえのお話で、こんな銀行制度があり得たことに驚き。犯人は、まあそりゃそうだわなって感じですが、その周辺の心理の機微は上手いです。なおかつ後味悪いのも好み。

「リージェント公園殺人事件」
これは名作。本当に実行できるのかという疑念もありますが、ラストの老人とポリーのやり取りで、それも薄まる。本当に異色な探偵シリーズだと痛感。

「パーシー街の怪死」
シリーズ中、最も有名な話。解説でビックリ。へえ、そうだったんだ。やはりこの本、買ってよかった。

グラスゴーの謎」
本邦初訳作品。事件構造は見えやすいが、犯人に対する老人の評価には奇妙な説得力がある。

「ヨークの謎」

早川の短編集にも訳載。これは上手いですね。誤導がさりげなく、最後の反転が実に鮮やか。短編ミステリの醍醐味です。

リヴァプールの謎」
早川の短編集にも訳載。これはさすがに、気付かない警察がお粗末過ぎる。イギリス人の外国人貴族に対する偏見を、ハンガリー貴族たるオルツィが自分の創造した探偵に語らせているのは面白いです。

「ブライトン事件」
早川の短編集にも訳載。これも瑕疵が目立つ内容ですが、シリーズ全般に共通する「どうしてそうなったのかについての説得力の高さ」はマル。

エジンバラの謎」
早川の短編集にも訳載。極めつけに後味の悪い話です。やるせないなあ。

「ダブリンの謎」
創元の『世界短編傑作選1』にも訳載されている名作。海を越えてダブリンまで裁判を傍聴しに行くあたり、やはり「安楽椅子探偵」ではないですね、隅の老人は。もっと別の異様な存在であることは、特にこの「完全版」で追いかけていくと、よく理解できると思います。 

バーミンガムの謎」
戦前の抄訳は存在したようですが、本格的な翻訳は今回が初とのこと。パターンに沿った構造かと思いきや、少し足をすくわれました。

 

第二短編集『ミス・エリオット事件』収録作品

創元・早川版の訳では存在していなかった「読者への挑戦」が織り込まれている。

「ミス・エリオット事件」

創元の短編集に訳載。複雑な真相でもなく、妥当な容疑者も限られているので、仰々しい読者への挑戦が、肩すかし感。

 

「シガレット号事件」

本邦初訳。関係者の「なぜそんなことをしたのか」という疑問への答えに無理があるような……。

 

「ダートムア・テラスの悲劇」

早川と創元の短編集にも訳載。これは好きな話。行動原理が自然だし、皮肉な展開も良いです。

 

「誰が黒ダイヤモンドを盗ん だのか?」

戦前に抄訳あり。解説でも指摘がありますが、ドイルのホームズ物の影響が強いです。なかなか錯綜したプロットで、これまた良し。

 

「ミス・ペブマーシュ殺し」

創元の短編集に訳載。これまた良。真相は単純たるべし、という基本を押さえている。伏線がまた上手いんだ。ほのめかし程度で しかないけど、伏線なんてそのレベルで十分だったりしますし。

 

「リッスン・グローブの謎」

早川と創元の短編集にも訳載。これは印象的な話ですね。ゾっ とする真相も含め、本格ミステリの佳品かと。

 

「トレマーン事件」

創元の短編集にも訳載。意外な筋運びに、これまた意外な真犯人という「らしい」お話。

 

「アルテミス号の運命」

創元の短編集にも訳載。日露戦争が背景となったお話で、他のシリーズ短編に比べても異色の内容。

 

「コリーニ伯爵の失踪」

人間消失もの。別なお話と構造が似てますが、こっちはちょっと上手く話が運び過ぎという気がして、不自然に思えます。

 

「エアシャムの謎」

創元の短編集にも訳載。メタ的に読むと、読者への挑戦が入るタイミングはもっと早い方がいい。物語としては自然なので、さほど気にな りませんが。

 

ノヴェルティ劇場事件

戦前に抄訳あり。やはりパターンをなぞった図式ですが、結果として不可解な状況が出来上がるのが上手い。

 

「バーンスデール屋敷の悲劇」

創元の短編集に訳載。「困難は分割せよ」という言葉の、美しい見本ですね。

 

第三短編集『解かれた結び目』収録作品。

第二短編集刊行からシリーズ再開までの20年間のブランクが作風に影響を与えている感あり。

「カーキ色の軍服の謎」
私家版の翻訳あり。シリーズのお約束を逸脱した展開にちょっと驚く。事件そのものはいたって普通。

「アングルの名画の謎」
私家版の翻訳あり。語りの構造に変化が見られます。内容は別の話の焼き直し同然ですが。

「真珠のネックレスの謎」
私家版の翻訳あり。これはちょっと意表を突かれた。内容はこれまた別の話の焼き直しなんですが、語り方が上手いのかな。

「ロシアの公爵の謎」
戦前の抄訳と私家版の翻訳あり。なんだこれは、ひどいな。無理があり過ぎるプロットとトリックという他ありません。 

「ビショップス通りの謎」
私家版の翻訳あり。異様な関係性の家族の中で起きた殺人。短編で使うにはもったいないプロットと、焼き直し的な見え透いたトリックのアンバランスさが、どうもなあ。

「犬歯崖の謎」
本邦初訳。冒頭3ページで「あ、あの話のパターンか」と推察させちゃうのは手抜き感。落とし方に工夫はありますが。

 

「タイサートン事件」
戦後の「小説推理」に翻訳が掲載。発端の奇怪性・中盤の意外な展開・結末の単純かつ巧妙な真相、というたいへん優れた本格ミステリ。それだけに設定が錯綜していますが、読みごたえはあります。

「ブルードネル・コートの謎」
本邦初訳。まあそりゃそうですよね、という真相。何で警察は気付かないのか。でも「何でそう行動したのか」の説明は相変わらず上手いです。

「白いカーネーションの謎」
本邦初訳。おお、これはびっくり。込み入ってて頭に入って来にくい内容だっただけに、真相が単純かつ明快なのが良い。

「モンマルトル風帽子の謎」
戦前の抄訳あり。前の話と同じく設定が込み入ってるし、その割に真相もいい落とし方なんだけど、なんだろう、この割り切れなさ。何でバレないんだよ、というツッコミを入れたい。

「メイダ・ヴェールの守銭奴
戦前の抄訳あり。もっと簡潔にまとまるんじゃないの、という印象。かなり語り方に衰えが見られます。

「フルトン・ガーデンズの謎」
本邦初訳。心理の機微は上手く表現で来てる。でも野暮ったい語り口が、どうにも。

「荒地の悲劇」
戦前の抄訳あり。シリーズ最終作。「読み切った」感は得られるかな。