とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

今年度の翻訳ミステリの最大の収穫のひとつ ジョン・コラピント『無実』

無実 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

無実 (ハヤカワ・ミステリ文庫)

 

小説として描かれる犯罪の悪辣さにここまで憤りを感じ、そして読者の無力さを味わったのは稀有の体験だ。
唾棄すべき存在としての犯人。彼の狡猾な知恵と無慈悲な偶然により進行する破滅への序曲。彼の奏でる笛の音に踊らされる二人の男女には、愚かしさへのいら立ち以上に、人の心理の脆さと危うさに感じ入る他ない。
「家族の絆と愛情」が、この作品ではあまりにも無情に嘲笑される。だからこそ、その重要性を噛みしめることにもつながるのだが。全米で激論を生じさせた問題作ということが納得の読後感だ。読もうとするなら、十分な覚悟を持つべきだろう
10代の少女の瑞々しい美しさに魅かれる中年男性。それはアメリカに限らず、日本でも数多く存在するはずだ。いやむしろ日本の方が低年齢層の少女の性商品化が激しく進んでいる。なればこそ、この作品で描かれる、抑制されつつも淫猥なエロスの描写に対し、読者が何を思うか、何を感じるかが大きな問題となる。率直に言って私は読んでいる間、不快で仕方なかった。同時に「でも男だから仕方ないよな」とも思ってしまったのも事実だ。
この問題に、答えはあるのだろうか。あるのかもしれない。しかしそれには、個人と社会、双方の倫理を厳しく見つめ直す作業を必要とするだろう。
この作品がもたらす問題意識は、あるいはこの作品を読まずとも十分に認知されていることだとも言える。それを社会は、時には嫌なものに蓋をするように遠ざけ、時には病んだ現代を斬るひとつの術として用いる。
だが、フィクションだからこそ見えてくる真実があるはずだ。それは決して事実ではないにせよ、読者の心に強烈な「体験」を刻み付ける。本書は、そんな体験が約束された類い稀れな一冊だ。
そして、翻訳者・横山啓明が遺した最後の仕事でもある。並々ならぬ気迫が伝わるその訳文も、ぜひ味わってほしい。間違いなく、今年度の翻訳ミステリの最大の収穫のひとつになることだろう。