この本のタイトルは『文章で読むヴィクトリア朝ロンドンとシャーロック・ホームズ』であるべきだ。というくらいにテキストのシャーロッキアン的濃密度が半端ない。ホームズを入り口にしたロンドン案内なんて考えて読みだしたら、大変な目に合いますよ。
もちろん貴重な写真や図版が数多く収録されており「眺めているだけ」で楽しむことも可能だが、それはこの本の魅力の上っ面しか味わえていないことになる。ホームズ物語が一つの神話体系と化しているのは、一つの物語を徹底的にしゃぶりつくさねば気が済まない愛好家の存在の、賜物なのである。
こうした事例は、他のフィクションでも見られよう。だが100年以上前の物語が、21世紀の現代においても今なお、原作は愛読され続け、新たな映像化作品が陸続と生み出されていくという現象は、他のフィクションでは今のところまだ成し遂げられていないのではなかろうか。
そもそも舞台となる「19世紀末のロンドン」に世界中の多くの人々が共通したノスタルジーを感じるのはなぜか。少なくとも、ノスタルジーがあるがゆえにホームズ物語が愛読され続けてきたわけではないだろう。多くの人々は、ホームズ物語を通して当時のロンドンの世界に駆け込んでいくのだ。
ドイルが、自身の生み出した物語とキャラクターの影響力についてどの程度まで自覚的であったのかはわからない。しかし彼の残した物語は「預言書」としてあるいは「神託」として徹底的に解読され、神学論争の如きものすら生み出し続けている。
そうした熱狂的な信者の存在は、大多数の一般読者にしてみたら本来は関わる必要のないものでもある。関わると面倒なことになりそうだ、という懸念も生まれる。
しかし「物語を読み解く」という作業を徹底することは、その後もホームズ物語が永遠に古典として語り継がれていく上で、大きな熱量を加えていることは間違いないのである。まさしくこの本が、そうであるように。