とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

キモいおっさんの百合語り

今年は前半に林家志弦の『ストロベリーシェイク』という百合コメディの超名作に出会いまして、これが至上の百合漫画かなと思ってたところへ缶乃の『あの娘にキスと白百合を』というこれまた大傑作に出会ったことで、その差異に考え込むことがある。両者の最大の差異は、現実との距離感だ。

前者は設定を「芸能界」として、基調も破天荒なギャグマンガとすることで、現実との距離感をそもそも埒外に置いた。おとぎ話なのだなこれはと、自然に読者に悟らせる。その上で、拵えものの世界で交わされる二人の少女同士のまどろっこしい恋愛を、客観的に楽しませるのである。「早くくっついちゃえよお前ら!」と何度心の中でつっこんだことか。

一方で後者は、「中高大一貫の女子校」という舞台設定に加え、コメディ成分は物語の進行を妨げない程度に抑制されることで、読者に「これは現実と地続きの世界かもしれない」と思わせる。この手法は、まさしく今野緒雪の『マリアさまがみてる』と同じ手法だ。だからこそ読者は時に笑い、時には悲しみ、時には身悶えするアンビバレンツを感じるほどに、作中のキャラに共感を寄せるのである。

もうひとつ差異を提示するなら、前者は「何処まで行っても主人公二人の物語」であるのに対し後者は「共有された空間での群像劇」であるという、その差だ。ここに優劣をつけるつもりはない。前者でもジョーカーとしてのZLAYをはじめ、魅力的なサブキャラは多いのだから。それでも本質的に、この差は大きいと感じる。さらに後者はこの場合、マリみてとも大きな隔たりがある。それは「山百合会」や「姉妹制度」というギミックが存在しない空間である、ということだ。

百合文化というものを論じられるほどに系譜に詳しいわけではないが、マリみてをこのジャンルのエポックメーキングとするのは一般的な認識であろう。そのマリみての同人を好んで描いていた林家志弦という作家は、マリみてとまったく異なる手法で完全に独立した、『ストロベリーシェイク』という世界を構築した。一方で作中随所にマリみてオマージュを感じさせる『あの娘にキスと白百合を』は、マリみてが成功を収める要因となったポイントを逸脱することで、より「現実と空想の狭間」という得難いポジションを獲得しつつあるように、思える。

というわけで結論としては、、私の中では「百合それ自体に関心を魅かれる」のではなく「どんな風に百合が描かれるのかに関心がある」ということになりましょうか。何でもかんでも「キマシタワー」的な風潮はあまり好きになれない理由が、そこにあると思っています。やたら長いけど、ごく当たり前の結論ですね。申し訳ない。