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とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

最後の最後まで「救いのない」物語 パトリック・レドモンド『霊応ゲーム』

読書 読書-翻訳小説
霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)

霊応ゲーム (ハヤカワ文庫NV)

 

人間は社会的な生き物だと定義される。そして学校は、幼少期の子どもが社会生活を学び、協調性を得ていくための場所でもある。
しかしそこで習得される協調性は、言葉を換えれば建前や欺瞞に満ちた虚飾を守る術である、とも呼べるだろう。
そうした虚飾に思春期の少年少女は嫌悪感を覚えがちだ。それは純粋な精神の発露であり、自然な反応ではある。だがその純粋さを保ち続けようとする限り、社会はそうした者たちにとって極めて住みにくい場所となる。社会が彼らを排除するのではなく、彼らが社会から疎外されていると感じるためだ。
その疎外感が特権的な意識を持つとき、彼らは自分たちが(根拠のない)万能感を備えていると感じ始める。俗に「中二病」と称される精神も、こうした意識の表れだ。

この作品は、閉鎖的な英国のパブリックスクールを舞台にした、陰惨な物語だ。パブリックスクールという場は、古き良き英国社会を成立させてきた重要なシステムのひとつだ。そこで培われた伝統により、その場に集う少年たちは英国上層社会で生きるならわしを学んでいく。
既にそんな「古き良き英国」が失われていることが自明であったとしても、パブリックスクールという空間はそのようにしか存在できないのだ。

そんな社会の最小単位を成す「一対一」という関係性が持ち得るいびつさ。その生々しさは、ジョナサンとリチャード、二人の少年が互いに抱く幼稚で純粋な承認の要求によりむき出しにされる。彼らは鏡となり、周囲の人間たちのゆがんだ姿も映しだす。その鏡像に耐え切れない人間たちは徐々に追い詰められていく。
やがて中心にいる二人の少年にもその鏡像は映し出され、全てが破滅の道を辿っていく。悲劇的な結末は冒頭から暗示されていたが、ここまで救いのない話だとは思わなかった。舞台設定と人物描写の妙が、抜け出せない心の迷宮を彷徨う恐怖を克明に描く、青春ホラーの秀作。


以下、若干ネタバレにつき反転します。

タイトルとなっている「霊応ゲーム」は、こっくりさん的な一種の交霊術である。超自然的な要素はあくまでこのゲームからしか感じ取ることはできない。
だからこそ、さまざまな人物たちが彷徨う心理の迷宮の恐ろしさが感じ取れるのだが、超自然的な存在が否定されていないのもまた事実だ。人知を超えた何かが触媒となり、この陰惨で傷ましい悲劇がもたらされたのだとすれば、逆説的ではあるが人間が持ち得る善性もまた、肯定していることになる。

しかしこの悲劇を最後まで見届けたたった一人の人物、ニコラスが物語の結末後にたどった運命の、何と傷ましいことか。彼だけが今なお、心理の迷宮を彷徨い続けているのだ。ジョナサンとリチャードの映し出した、ゆがんだ鏡像にただひとり抗ったはずの彼だけが、今もなお。そう考えた時、肯定されたはずの人間の善性は、やはり超越的な悪意により翻弄され、貶められるということになる。
さらに最後に、彼の彷徨い続ける迷宮にまたひとり新たな人物(ティム・ウェバー)が誘われる。その人物の愚かしさによってだ。
二重にも三重にも、人間の善性が嘲笑される。本当の意味で「救いのない物語」なのである。これは。だからこそ、強烈で鮮烈な読後感を読者に与えるのだろうけども。