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とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

「読むこと」そして「書くこと」への自覚 山本貴光『文体の科学』

文体の科学

文体の科学

 

本書で語られる「文体」とは、小説技法的なそれに限定されない。綴られる文章の性格(法律を説明するのか、科学を論じるのか、言葉を定義するのか、書物を評論するのか)、また文章が掲載されるメディア(紙なのか電子なのか)といった側面から著者(文筆家・ゲーム作家)は「文体」を解体していく。「書く」「読む」という行為に自覚的な人ほど、発見したり啓発されたりする箇所が多いはずだ。特に自分の関心のある分野としては、やはり最後2章で語られる「批評」と「小説」について読まされる。

「批評」の題材として取り上げられるのが、「初めに言(ことば)ありき」から始まるヨハネ福音書であることも、示唆に富んでいる。ルターはどのよう に読み、エックハルトはどのように読んだか。そして著者はそれをどのように読解し、読者はどのように感じるのか。「文体」というテーマからはかけ離 れているようにも思えるが、「文章」と「読者」の接点となるという意味でやはり「文体」という切り口は重要なのだろう。

「小説」の章で俎上に載せられるのは、夏目漱石の『我輩は猫である』の冒頭一節である。日本近代文学の出発点のひとつであるこの作品を取り上げることにも、著者の何らかの意思が感じられる(と、私は読むわけですが)。そしてここから派生して論じられる話題は多岐にわたる。「何を書き、何を書かないか」「書かれている事象と書いている人の意識の時間差」など、小説的な技法に興味関心のある人ならぜひ読んでほしい内容だ。基本、ミステリ読者 である自分に限っても、ここから叙述トリック作品の文体を論じるような流れに進化させたくなる。

逆にいうと、論点がとっ散らかるためいささか散漫な印象を受ける構成でもある。しかしこれは、まさしく「書物を読む」行為について考えるきっかけを 与えてくれる本なのである。この視点が欠ければ、読書とは単に文字情報を享受する受動的な行為となるともいえる。だからこそ、これは貴重な書物であると私には思える。

あるいはこの本を電子媒体で批評するとき、どのような形になるのか(レイアウトはどうするか、ハイパーリンクはどう用いるか)といったことを考える のも面白い。きっとやってみたら楽しいと思うが、出来上がるのはウロボロス的なモノになりそうで、永遠に終わらぬ言葉の迷宮に誘われそうである。それもまた、「読書」の愉悦なのかもしれないが。

「だから本当は、批評とは書き手にとってなかなかおっかない試みなのではないか、とも思う。何しろそれは、知的に裸になってみせるようなものであろ うから。(中略)しかし同時にそうすることでこそ、ある書物や文章がある読み手の知と組み合わさり、他では生じ得なかったかもしれない前代未聞の意味や価値を、その書物や文章に見出すことも可能になるのである」(本書p233~234)