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とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

「稀代の才能」を読み解く二人の読み巧者 殊能将之『殊能将之読書日記2000-2009』

読書 読書-評論、レビュー

更新再開しますと宣言しておきながら、結局放置プレイになってしまっており本当に申し訳なく思っている。

ちなみに来年の春、青森県弘前市で「翻訳ミステリー読書会」を立ち上げることを決意し、現在twitterほかでいろいろ画策しております。

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ま、それはそれとして。昨日、この本を読んだわけです。

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

殊能将之 読書日記 2000-2009 The Reading Diary of Mercy Snow

 

 これを読んでつらつら思ったことをtwitterに書き連ねたわけですが、webページでリアルタイムで読んでいたこともあり大筋は流し読みである。しかし読み過ごせないのは、若島正と法月綸太郎の解説であります。これはすごい。なぜかくも思考の軌跡を明晰に言語化をできるのか、この人たちは(シュノーセンセにも通じることだが)。

あくまで、若島氏と法月氏の解説を読んでの感想であり、本そのものの感想ではない。それはまたいずれ書くと思うが、以上を承知の上で、関心がある方は続きを読んでいただきたい。

 

若島・法月両氏の故人を評した文章に戦慄にも似た感銘を受ける。読み巧者は読み巧者を知るということか。「殊能将之」という稀代の才能を読解する両氏の試み。それは殊能氏がイネスやジーン・ウルフ、デイヴィッドスンらの読解で行ってきたこととリンクする。
殊能氏も若島・法月両氏も、偉大なる読み巧者であるという点では共通している。しかしそのメソッドが殊能氏と両氏では異なるというのも自明だ。
両氏は正統派の分析家である。理知が見える読み方だ。こういう言い方をすると殊能氏はそうではないととられそうだが、殊能氏の読み方にも理知の閃きがある。
しかし氏の書く文章にはアイロニカルかつ偽悪的・露悪的な部分が目立つ。それがゆえに理知は稚気に姿を変える。このあたりどこまでが天性のものでどこからが演技なのかはわからぬが、これこそが氏の個性であり、私が永遠にファンであろうと確信する理由でもある。


ここで話はやや逸れる。この本を読んで思い出す本が二冊。霜月蒼氏の『アガサ・クリスティー完全攻略』と二階堂奥歯さんの『八本足の蝶』だ。
前者は、まさに「端正なブックレビュー」だ。人に本を勧めるという行為の最高の見本のひとつがこれだ。同時に、体系的に一人の作家を読解するという作業に計り知れぬ価値がある。
後者は、ブックレビューとしては体裁を成していない(それ自体を目的にしたテキスト群ではないのだから当然のことだが)。しかし一方でこれほどまでに「読書がもたらす愉悦と不安」を高めてくれる麻薬的な書物も稀有である。それは、私的なはずの日記を垣間見る際の緊張感にも通じよう。


さて、殊能氏である。氏の読書日記は、とことん「自分のため」に書かれた内容である。それが結果として「書評」として成立し得るのはひとえに氏の該博な知識と研ぎ澄まされた鋭い言語センスのたまものだ。はっきり言おう。私は殊能氏の書いた作品を愛する以上に、殊能氏の書く文章のファンだったのだ。
告白するが、私は2chミステリ板の殊能スレの住民だった。住民は、殊能氏が小説を書かずとも、memoやreadingが更新されればそれで喜びを感じたものだ。
これほど特異な位置を保った作家はなかなか思い至らない。作家として寡作でありつつ、饒舌さを読者に十二分に感じさせていた作家。それが「殊能将之」という個性だ。
結局、私は殊能氏が書く文章をずっと読み続けていたかった。それがマニアックな海外文学ネタだろうと細々した日常ネタであろうと、氏の生み出す文章でさえあれば、それでよかったのだ。その単純な事実に気付いたのは本書のおかげだ。


ここで本書の若島・法月両氏の解説から何か所か引用する。まず若島氏から。

「殊能的なるものは、こうしてわたしたち読者を楽しませながら教育して、どんどん増殖していく。しばしば愛読者は、殊能氏のことを「シュノーセンセー」と呼んでいた。彼らは、自分たちの好みが殊能氏によって教育されたことを、心のどこかで自覚していたに違いない」

 


再び若島氏から。

「殊能氏はマイクル・イネスを徹底的に楽しんで書いた幸せな作家だと論じているが、おそらくその言葉は殊能氏自身にも言えるだろう。それは殊能氏が自ら掲げた目標だったのだろう。徹底的に楽しんで書いている読書エッセイ、それがおもしろくないはずがない」

 


さらに若島氏より。

「少なくとも読者は殊能氏の本を読んでいるだけで幸せになれる。あとは、そうして幸せな作家を目指した殊能氏が、あらゆる点で幸せだったことを願うしかない」

 


続いて法月氏より引用。一部、文章を省略しています。

「海外ミステリへの言及では、マイクル・イネスとピーター・ディキンスン、ポール・アルテが御三家だろう。総じてマニアックな話題に終始しているのにオタクをこじらせたような臭みを感じさせないのは、人徳(「文は人なり」の意)というほかない。見習いたいものである」

 


再び法月氏より。

「だから殊能氏は、本格ミステリを暇つぶしの余技として突き放すことはできなかった。『キマイラの新しい城』を発表した後、長い休筆期間が訪れたのは、「殊能センセー」がイネスのような「架空の作家」ではなかったことを逆説的に証明しているのではないか」

 


さらに法月氏より。引用はこれで最後。

「が、殊能将之のような独特の才能の所有者には、あの程度働いたくらいで死ぬ権利はないのである」

 


殊能将之という複雑な個性-テキストと言い換えてもいいーを読解するため、若島氏も法月氏も極めて真摯に向き合っている。それは韜晦癖のあった殊能氏の「読み方」とは異なるアプローチだ。逆に言うと、稀代の読み巧者たる両氏であっても殊能氏のようには読めないのだろう。あれはまさに、殊能氏だけにしか到達できない境地なのだから。


若島・法月両氏の文章は、殊能氏の文学観の解説である以上に、惜しんでも余りある才能への痛切な哀歌である。私には、そう読めました。おわり。