とりあえずかいてみよう

読書とか映画とか音楽のことを書きます。書かない日もあります。でも書こうと思ってます。

近年の収穫 『フラナリー・オコナー全短編 下』


フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

フラナリー・オコナー全短篇〈下〉 (ちくま文庫)

 
上巻収録作では用いられていなかったモチーフ(母にコンプレックスを抱く息子)を取り入れた作品が目立つ。そして相変わらず、痛い。痛すぎる。この作家に出会えたのは近年の収穫でした。すごく人を選ぶ作家で、選ばれる人は基本的にイジワルな人だと思うが、私はイジワルな奴でよかった。ミュリエル・スパークと似た感じだけど、スパークがドライで突き放した印象が強いのに対し、オコナーはウェットでネチネチしてる。だがそこがいい(スパークもいいけどね)。
 
「すべて上昇するものは一点に集まる」
ジュリアンは、母親が減量教室に通う、その付き添いでバスに乗っていた。やがて黒人客が乗り込んできた。
これは紛れもない傑作。とにかく青年の心理描写が、読んでて辛い。そしてラスト。下手なホラーより数倍怖い。

「グリーンリーフ」
ミセス・メイの農園に牛が迷い込んできた。その牛は、ミセス・メイの使用人の、成功した息子たちの農場からやって来たようだった。
「火の中の輪」や「強制追放者」でおなじみの、女農園主の苛立ちを描いたお話。そしてそこに、新たに息子という要素が加わって、これまで以上にヒドい内容になっている。最後は、精神的にも肉体的にも痛い。

「森の景色」
ミスタ・フォーチュンは、自分の農場をすべて、孫のメアリに譲るつもりだった。娘やその夫になどくれてやるものか、と。
老人が悲惨な目にあうパターンの話は、エゴイズムがその原因になってるものが多いな。
 
「長引く悪寒」
アズベリーは故郷へ帰ってきた。自分はもうじき死ぬ。母には、自分が死んだ後、彼女の責任を突き付けてやらねばならない。
非常にユーモラスなお話でした。滑稽味が強い作品の方が、やっぱり自分は好みだなあ。

「家庭のやすらぎ」
トマスは母に決断を突き付けた。あの女と自分の、どちらかを選べと。女を選ぶなら、自分はこの家を出ていく、と。
訪れるべくして訪れる破局、というのは予定調和でしかないのに、それでも空しさを感じさせる。

「障害者優先」
慈善事業に傾倒するシェパードは、少年院を出所したばかりのルーファス少年を家に引き取ることにした。あらゆる点でルーファスは、自分の息子ノートンよりも勝っていた。足の障害など、些細なことだった。
うわあああああああああああああ。やばいこれはやばい。初めて「父親」の視点で描かれる小説には、たぶんオコナーのモチーフが全部詰まっている。特に、救いがないはずなのに、見方によっては救われている、というあのラストは……。必読。
 
「啓示」
ミセス・ターピンは夫の付き添いで、病院を訪ねた。待合室の周りには、感じのいい老夫人とその娘がいた。
待合室での一幕物で終わるのかと思ったら、後半は作者お得意の農園に舞台が移る。登場人物たちが交わす「他人への干渉」についての考え方は、今までのいろんな短編の縮図と言えるかもしれない。

「パーカーの背中」
パーカーが今まで付き合った女は皆、彼の背中にある入れ墨を気に入っていた。しかし一人だけ、それを嫌った女がいた。パーカーの妻だった。
むやみに長いせいか、切れ味に欠ける。

「よみがえりの日」
タナー老人は、ニューヨークにある娘のアパートメントに同居していた。思い返すはアラバマの住み慣れた掘っ建て小屋と、長年の付き合いの黒人の使用人のことだった。
上巻の「ゼラニウム」と似てるな。ラストはこちらの方が後味悪いが、余韻の深さで言うとあっちの方が上だろう。

「パートリッジ祭」
カルフーンは久々に、祭りの見物を口実に、大叔母の住む屋敷を訪ねた。本当の目的は、この町で先日発生した、連続殺傷事件の犯人を題材に小説を書くことだった。
テーマ的に、現代日本の抱える問題と重なるところがあって興味深かった。

「なにゆえに国々は騒ぎ立つ」
メアリは息子のワルターに、農園を継ぐよう告げた。父が倒れた今、彼しか適任者はいない。28歳になる今の今まで、何ひとつ働いてこなかったとしても、だ。
ニート小説、なのか。よくわからないまま急に終わるところがおかしい。
 
 
下巻はとにかく「障碍者優先」と「すべて上昇する者は一点に集まる」が大傑作。もう一度読み返さないと。